船酔い哀歌(15)

氷川丸は船出した。東へ船首を向けて日本を離れた。あの時が、今日までわたしの生き様の一切を仕切ることになった「出来事」の発端だった。無鉄砲から飛び出した弾の弾道やいかに。船尾近く、水平線に消え去った日本の残像を追いながら、わたしはことの重大さにようやく気付いたのである。梯子を外された虚脱感、旅費を使い切った旅先の不安、いや、そんなものじゃない。それは、あたかも羽ばたきの術も知らぬ海猫の雛鳥が、なにを血迷ったか、東尋坊の崖から滑り落ちたか如き感覚だった。め○ら蛇に怖じずとはよく言ったものだ。

航路が交わる
出帆から数日、気の高ぶりを抑えきれず上甲板に立った。思えば十年余前、日本海軍機動部隊が択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を発った。開戦劈頭、真珠湾を目指す第一航空艦隊だ。わが氷川丸は北太平洋のシアトル航路、この先で東南下する機動部隊と航路を交えるのだ。一瞬、時空を超えた幻想で、わたしは過去と現在を怪しげに取り混ぜていた。「そうか、この先を左から右へ、南雲の第一航空艦隊が縦列して横切るはずだ…」。血湧き肉躍った少国民時代のわが身に戻って、わたしはそこに、わが氷川丸と航路を交える真珠湾攻撃部隊の幻影を見てはっとした。

気づけば、地鳴りのようなエンジン音を通奏低音に、灰色の海面は変哲もなくひたひたと後方に流れていた。アメリカ行きの興奮を鎮めるはずが、思わぬ幻想に戸惑ってわたしは甲板を離れた。

船酔い
恥ずかしながら、東京湾を出るか出ないか、黒潮を横切る辺りと思しき一刻、わたしはいまでも記憶に残る為体(ていたらく)だった。大師詣でに六郷川の渡し船に乗ったほかに、船旅を知らないわたしは大いに仰天した。気象の具合もあったのだろうが、湾をでるや船は揺れまくり、生まれて初めてこともあろうに、華の氷川丸でわたしは船酔いを体験したのだ。強情もさることながら頑健が売りのわたしにとって、あれは屈辱的な出来事だった。気はたしかながら、食欲がまったく萎えた。憧れていた氷川丸の食事を、まる数日食い損なったのだから、惨状は推して知るべし.

閑話休題
ところで、華の氷川丸と書くにはわけがある。一万二千トン余の美しい船姿ばかりでなく、昭和五年の日本郵船シアトル航路に就航以来、開戦一か月前に病院船として徴用されてから終戦まで、触雷三度、ついに沈没の憂き目を見ずに生き残った強運、不死身の船だからだ。氷川丸はいま、不死身の故に横浜港山下公園下に係留されて命長らえている。

唐突な船酔いに度を失ったわたしは、せめて氷川丸の赫々たる船歴に思いを馳せて、いっときの無聊を慰めた。一八〇度に広がる海原はどの方角にも陸地のない灰色の盆だった。船は地鳴りのようなスクリューの回転音で絶え間なく震えた。煙突が吹き出す重油の臭いでわたしの食欲はあくまで削がれた。外洋へ出てからしばらく、名にし負う氷川丸の船上料理にまったく食指が動かなかった。いまになれば、口惜しくも懐かしい思い出である。

三等キャビン
わたしの寝床は三等キャビン、船倉近くの狭い部屋だった。二坪ほどのスペース、片側に寝床四段、一方に外への狭い廊下部分があった。およそベッドに寝たことのないわたしは、船酔いも重なりとても寝付かれなくて往生した。何ごとも試練、試練と言い聞かせる。唯一の慰みは読書だった。数冊持ち込んだ書物の中で、妄念を払う格好のものは「孤独と友情の書」という一冊だ。高揚した気持ちを鎮める効果が抜群だった。これはジードとリルケの往復書簡で、すでに言葉に只ならぬ感覚が育っていたわたしには、快くも刺激的な書きものだった。

そうこうするうちに、わたしは幸いにも船酔いを克服、ようやく若者らしい食欲が沸いてきた。日々の食事が待ち遠しくなってきたのである。出航後、すでに一週間ほど経っていた。

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